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赤面レポート

僕の家事実践は、家の家事手伝いから一人暮らしというという転換を経て、さらに脱サラ貧乏暮らしという必要に迫られた部分もあり、自然とその能力が身に付いた。凝り性という性分も、家事とくに料理を楽しむ方向に向く追い風になった。

だけど、男女共同参画や男女性別役割分担というものに対する意識という面では、僕のスタートラインは、ポールポジションの研究者エリート達や主夫エリート達からは、はるかに遠いグリッドからのスタートだった。

先に書いたように、僕の家族は、サラリーマン+専業主婦に子どもが男女一人ずつという、典型的な「ニューファミリー」だった。父は、ほとんど家事らしきことをしない仕事と趣味の人だった(定年退職した今は違うけど)。当時の父の職場環境も、女性がほとんどいないか、いたとしても補佐的仕事を受けもつだけだったようだ。そのせいか、父は女性の社会進出にはとっても否定的だった。

高校3年のある時(1985年)、学校からレポート課題が出された。正確な課題文は忘れたが、それは女性の社会進出についての課題だった。そのレポートに対して、僕が書いた内容は、今思い出しても赤面モノであり、いかに僕の考え方が劇的に変化したかがわかるモノだ。

現物はすでに処分しているので、うっすらと覚えている内容のみだが、しかしハッキリと記憶に残っている。大筋はこうだ。

女性には残業や出張ができない。なぜなら家庭で子育てをしたり、家事をしたりしないといけないからだ。女性の中には、男性と同等に働く人も中にはいるが、その大半は家庭での役割を放棄した人達であり、そういう人達が増える事は、社会としては好ましくない。そもそも、女性には男性のような腕力もない。云々。

弁解を書かせてもらうと、これは僕の意見ではなく、「女の人はすぐ辞める」など、父がよく家で語っていた内容だった。正直いうと、僕には女性の社会進出についての意見はなかった。ただ、なにを書いていいかわからない時に、その場しのぎの意見としていい加減に書いたのがこれだった。父親がいうことに対して、「なぜ残業ができないのだろうか?」や「なぜすぐ辞めるのか?」という、そこまで深く追求するセンスも僕にはなかった。

その父も、シッカリとした根拠をもってして、「女性の働き手はアカン」と言ってたかというと、これまた怪しい。東京の本庁から転勤してくるエリート官僚達の受け売りだった可能性は十分考えられる。日々の業務に追われ、自分でジックリ考えたうえでの発言ではなかったのではないか?と今では思える。

このレポートを担任の先生に見せたところ、彼はとっても困惑した顔をしていた。今でも、その時の困った顔をハッキリと思い出す。僕の後悔は、なにも意見がなかったのなら、「意識して考えた事はない。ただ、今後は少し視野を広げてみるべきだろう」と書くべきだったということだ。当時は、まだエエ格好したり見栄を張る部分があったのだと思う。ところが、エエ格好のはずが、見識のある人達や受験で点を取れる人達の「模範解答」知り、「なんで?みんな男は仕事、女は家事って思ってないん?」と腑に落ちない僕がいた。

こんな思考停止かつ保守的思考にフリーライドだった僕も、少しずつ意識が変わり始めた。それは、高校3年での大学受験で惨敗し、浪人した時だった。時間的に余裕ができ、某大な量の現代国語の評論文を読むようになった。政治、経済から文化や芸術、哲学や科学、戦争や宗教、イデオロギーなど、さまざまな領域の、それも現代国語の問題文に使われるような、名著や名文にたくさん接することができた。一気に情報源が広がり、経験だけでは知り得なかった、貧困や人権問題や公害問題などの現実を知った。少し斜めから社会をみる視点が育つと、いろんな立場の評論が、自分の立ち位置をもって読めるようになった。そんな中で、僕のジェンダー観も少し変化し始めた。

まだ頭の中が固まらず柔軟な時期に、たとえ詰め込みであっても、いろんな考え方に接するというのは悪い事ではないような気がする。僕が、受験戦争を全面的に否定しないのには、こういう背景があるからだ。

大学受験が終わり、大学進学と共に一人暮らしが始まり、家事実践はすこしずつ身に付いた。頭の中も、少し変化していたかもしれない。でも、ジェンダー研究者になるチャンスは、自分のものにできなかったし、興味もなかった。僕が通っていた大阪市立大学には、女性労働研究で著名な竹中恵美子先生も在籍していたのだけど、そのことには全然気付かない程度の意識だった。スピリチュアル・シングル論の伊田広行さんが、同時代に大学院で竹中ゼミに在籍していたはずなので、もう少し意識が高ければ、モグリでもなんでも行動できたはず。でも、当時の僕には、そんな「正統派」な意識や見識はなく、バンド活動に明け暮れる「ダメ学生」生活を過ごしていただけだった。

バンドの練習ばかりしていたので、ろくに講義も出てなかった。講義も出ず、レポートだけ出して単位がもらえるほどの要領の良さも瞬発力もなく、一科目分の単位不足で卒業時に留年した。留年すると、それまであんまり親しくなかった同級生も、「同じ留年組」というだけで急に仲良くなり、講義情報や就職情報の交換から、合コンや飲み会などの付き合いをするようになった。それまでバンドばかりで、しかも大学のサークルとは関係なく活動していた僕にとって、いちばん学生らしい生活をした時期だった。この頃、近所で下宿している者同士でよく飲んだ。

そんなある日、これも強烈に覚えている出来事があった。博多出身の田中くんと飲んでいると、彼が

「オレなぁ~主婦ってイイなぁって思うんやわ。いくら家事がシンドイゆ~てもノルマがあるわけじゃないやん?オレも主婦になりてぇなぁ~あ、主婦じゃなくて、男やから夫の方の『主夫』やね」

と語っていた。
僕の人生で、はじめて「主夫」という言葉に接した瞬間だった。彼とは卒業式で一緒に写真を撮り合い、「もう二度と会えないかもしれないけど、貴重な時間を過ごせた。ありがとう」と別れたきりだけど、今振り返ると僕の人生に強烈なインパクトを残した。

今で言うイケメンで、いつもオシャレで、一人住まいの彼の小洒落たマンションには年上のワンレンボディコン(今どきの若者にはわかるまい)の彼女が通ってくるという、ドラマに出てくるような男だった。僕の中にあるクールな彼のイメージと、放っておいても出世しそうな頭の良さと見た目を兼ね備える彼から、「主夫になりてぇ」というのを聞いて本当に驚いた。当時の僕は、「ふぅ~ん…主夫かぁ」と答えたような気がする。彼の「主夫」発言の他に、覚えているのは、その話をした店が、地下鉄あびこ駅近くの赤提灯の焼鳥屋で、とうていオシャレな彼には似つかわしくない場所だったことくらいだ。

はじめて僕が「主夫」という言葉を公に使ったのは、脱サラ後に始めた佛教大学通信課程のレポートの中だ。社会学か家族社会学のレポートだったと思う。男女性別役割分担について、「男性が主夫という立場を選択したなら」というテーマで書いた。「現在の男女性別役割分担は、支配しているとされる男性にとっても、家事や地域生活は難しく、決して全面的に有利な状況とはいえない」という内容のレポートを書き、締めに「父子家庭では、このような不具合が生活問題として負担になる」と書いたと記憶している。採点教員の評価は「優」で、「逆転の発想からのレポートで、切れ味が良い」と書かれていた。

このレポートは1995年の夏に提出した。この2年後の11月に僕は和子さんと出逢った。頭の中のパラダイム転換は、いいタイミングで間に合った。


僕自身には、こんな経緯があり、和子さんと出逢い、そしていよいよ結婚生活が始まることになる。
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プロフィール
主夫生活の傍ら、「スーパー主夫」「プロ主夫」として講演や執筆活動をしている山田亮のブログです

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