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アンチマッチョの萌芽

はじめて対面した日の翌朝。僕は普段通りに朝食づくり。コーヒー、パン、ソーセージとキャベツの炒め物、スープ。いつも通りの朝食。ただ、どれもが二人分だった。

予定外だったのは、料理以外でも普段通りだったことだ。いつものようにBGMを流しながらの調理だったんだけど、あの時のBGMは、忘れもしないマイケル・ジャクソンの「Black or White」。朝、元気になれるこの曲をご存知の人は思い出して欲しい。

曲に入るまでの父と息子のやり取りが終わり、イントロが流れはじめる。
そしてギターのリフ
♪チャカチャカチャカチャ~チャ~♪チャカチャカチャンチャ~♪
そしてこの後。
僕はマイケルに合わせて、

!!ハァウ!!

と、思わずデカイ声でやってしまった。
ふと背中に視線を感じて振り返ると、和子さんがベッドから目を点にして見つめていた。
「いやその、この曲。ほら、マイケル・ジャクソンの…」
「!!ハァウ!!しか聞こえへんかった」
この瞬間のインパクトはものすごかったらしく、しばらく、「この人、大丈夫やと思うけど…ホンマに大丈夫なん?」と思っていたらしい。

さて、ご対面から一週間で僕の30歳の誕生日がきた。前の年、当時の彼女に「急に仕事が…」でドタキャンされ一人で過ごしたのと大違い。

そして、舞い上がったまま修士論文提出の12月19日を迎えた。修士論文は、提出日の約一ヶ月以上前に完成していて、本当に余裕をもって推敲を繰り返しながら提出した…はずだったが…19日の夜、僕の数年前に修士論文を提出して、その苦労を知る和子さんとイタリア料理屋で祝杯を挙げてマンションに到着。その夜、突然の発熱でダウン。余裕で仕上げていたはずの修士論文だったけど、本当はけっこうなプレッシャーになっていたのかも。

翌日も丸一日寝込んでいた。知り合って早々のダウン。最初から「そのまんまの自分」全開だったとはいえ、かなりみっともない姿もさらしてしまい、「そのまんまの自分」フルコースになってしまった。

この論文提出後に寝込んだことで、僕ははじめて和子さんの手料理を食べることになった。それは「お粥」。お粥を料理というのかどうかはともかく、あの時はお粥しか食べられなかったし、自分ではどうしようもなかった。だから、「オイシぃ~しみるぅ~ありがてぇ~」と言いながら、心から「こういう時、誰かがそばにいてくれるってホンマにエエなぁ」と思った。10年以上の一人暮らしを経て、シミジミそう思った。あの時は、その思いがピークに達していたような気がする。

よく、「病気をキッカケに結婚を意識した」という話を聞くけど、その気持ちはとってもよくわかる。自分がどうしようもない時に、自分のために何かしてくれる人の存在というのは、本当にありがたい。それと同時に、そんな状態の自分を受けとめてくれた人の存在もまた愛おしく感じるものだ。最近話題の「おひとりさま」も、「病気の時だけは…」「老後のことを考えると…」という不安を聞く。看病や介護してもらうのが、必ずしも結婚相手である必要はないけど、もしもの時に最優先で看病してくれる近しい人の存在は、日々の暮らしの安心にもなる。安心が増える分、より穏やかな暮らしを支える基礎にもなるはずだ。

普段、どんなに偉い人でも、格好いい人でも、人には情けない瞬間やみっともない瞬間が必ずある。そうした時、そんな自分を「こんなときもあるさ」と受け容れることができ、しかもそういった姿も「込み」で付き合ってくれる人がいるとしたら、きっと、無理した自分を演出する必要もなく、自分に素直でいられるだろう。だから、「自分はどうしたいのか?」という判断を誤ることも少なく生きていけるような気がする。

僕は「!!ハァウ!!」や寝込んでしまったりして、早々に和子さんにみっともないことをさらけ出してしまった。でも、結果的に、これはこれで良かったと思っている。いろんなことが合わさって、競争志向や強さの誇示という意味での「マッチョ」を志向せず、「アンチマッチョでいきたい」という方向に向かいはじめた時期でもあった。まだ「アンチマッチョ」という言葉を僕が使い始める前だったけど、「この感じ」をつかんだ時期だった。

生きていれば、見栄や虚勢を張って格好良く見せるのも、時には大事かもしれない。「僕は○○より優秀だ!」「私は一番☆☆が上手!」をアピールすることが必要な場面もあるかもしれない。でも、攻撃的な姿勢は、同時に相手の攻撃性も引き出してしまう。動物写真家の岩合光昭さんが、ある番組(「英語でしゃべらナイト」:NHK)の中で「(被写体の動物が岩合さんを)敵と思うかどうかはこちらの態度次第」と話していた。自分の態度は、話や文字だけでなく、表情や仕草などに、知らず知らず表れ相手にも伝わるものだ。「なんで、みんな僕と打ち解けてくれないんだろう?」には、打ち解けていない自分がいるはずだ。「僕の周りには信頼できる人がいない」のは、自分が誰も信頼していないからだろう。だから、「そのままの自分」と付き合って欲しければ、相手の「そのまま」も受け容れないと関係は成立しなくなる。「僕は楽にしたい。でも、君はいつもキレイでキチンと元気でいて欲しい」というのは、構造上成立しないはずだ。

恋の駆け引きでは、「全部さらけ出したら負け」というのが一般的だけど、それは恋の話。人生をともに歩むパートナーと一生駆け引きを続けるつもりなら、それはそれで素敵なことだけど、「リラックスできる関係」「安心できる関係」を求めるのであれば、やっぱり、「そのまんま同士の付き合い」に優るものはないと思う。理想的には恋の部分も残しつつ、(実際にはさらけ出さないけど)イザという時はさらせ出せるし、間違いなく受け容れてくれるという信頼感を維持することだろうけど、これはなかなか難しい。

僕は和子さんと出逢うまでにいろんな出逢いや別れを経験してきたけど、それはきっとこういう巡り合わせのためのお膳立てだったのかな?と思った。それは、和子さんにも言える事だ。だから、僕は和子さんの「元カレ」なんかにも、「こんな僕を受け入れてもらえるような和子さんに、よくぞここまで導いてきてくれはりました」と思っている。彼ら無くしては、僕との出逢いもなかったはずだから。出逢うのが、あと数年早くても、あと数年遅くても、今の僕はいなかったと思う。



なんだかんだと、トラブルまでも糧にしながら順調に関係を気付いていく二人は、年末年始を一緒に過ごし、いよいよ結婚へと踏み出すことになる(ものすごいスピードだけど)。
ところが、ここで僕に染みつき潜在していた古い自分が浮き出るのだった。

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主夫生活の傍ら、「スーパー主夫」「プロ主夫」として講演や執筆活動をしている山田亮のブログです

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