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親に結婚を伝える

僕達は結婚を決めた!あとは、やっぱり親に報告せねばなるまい。

僕は、19歳で大学に進学した時、親元を離れた。それから仕送りという形で親の世話にはなっていたが、就職の時も退職の時も、婚約破棄の時も、親には相談せず自分で決めてきた。仮に、僕が親にその都度いちいち尋ねたとしても、きっと「最終的には自分で決めなさい」と言ったと思う。だから、僕が決めた結婚に対して、「ダメだ」と言ったり「もうチョット考えてからにしたら?」とことはないと確信していた。

一方、和子さんの両親については、「私があの家のオピニオンリーダーだから、全然問題ない。私がOKなら親もOK!」という話だった。それでも、もしも古い親なら、脱サラ大学院生で収入はバイト程度だし、もしかしたら「ヒモ」かもしれないし、なによりも我が家のオピニオンリーダーを「嫁にとられる」のは心中穏やかではないかもしれない…と考えた。「親は問題ない」というのは、婚約していた人も同じように言っていたが、その時は、実は親子のコミュニケーションが十分成立していない状態での「問題(にすらなれ)ない」だった。ただ、和子さんの場合は、それまでの経過から、「たぶん大丈夫」と僕も自信があった。それでも、「もしかして頑固オヤジさんだったら…」という場合も考慮して、その時は「こんな僕でもいいと言ってくれる和子さんを育てにはったのは、○○さんですから、その点ではとっても感謝しております」と言おうと思っていた。

いきなり両親にご挨拶というのもさすがにハードルが高かったので、和子さんが「まずはお姉ちゃんから」と義姉宅へ出掛けた。義姉も和子さんと似たような明るくおおらかな人だったし、僕のこともすんなり受け容れてもらった印象だった。その日は、義姉の夫で塾経営者のヒロシさんと酒を飲みながら、教育論で盛り上がった。一通り語り合った後、「ん!カッコちゃん(和子さんの家での呼ばれ方)!エエ人と出逢ってよかったやん!」と言ってもらえ、和子さん両親宅のオピニオンリーダーの双璧のお墨付きをもらった形になった。

翌朝、僕の両親宅に電話で報告すると、父親は出掛けていた。母親は、「あら、そうなん?なんか急やね」という拍子抜けする反応だった。年末に帰省した時になにも言わなかったことを、少し指摘されたけど、「前回(婚約破棄)の事もあって、話が固まるまでは言わん方がエエかなと思って」と話すと、その件は納得してもらえた。夜、もう一度電話すると、父親は「あんさんがエエと思うようにしたらエエ」という答えだった。

和子さんは、僕以上に僕の両親の反応を気にしていた。年上だし、年収も僕よりも多いし、家事も得意じゃないし…というので「男のメンツ」なんかにこだわる親だと猛反対されるかもしれないという不安があったらしい。「そんなん、僕の親やで。こだわるわけないやん」と言っても、「まったく気にせぇへん親なんているかなぁ?」と、あんまり信じてもらえてなかったらしい。だから、僕の両親の反応を聞いて「恐ろしいほどスムーズにコトが運ぶもんやなぁ」と言っていた。本当に、話がまとまる時には、誰も反対したり阻止したりする余地がないのかもしれないと思った。

さて、その数日後、和子さんの両親に挨拶しに行くと…その前に義姉一家が来ていて、ヒロシさんが僕の話をしていて、すっかり酔っぱらって上機嫌の和子さんの両親とヒロシさんがいた。部屋に入ると「まぁ座って座って、さぁさぁまず一杯!」と、すでに「いやぁ~メデタイメデタイ!」と宴会がスタートしていた。どっちかって言うと、こっちが普通の夫側の両親宅風景なのかもしれない。

すでに「結婚するモン」という展開で話が進んでいて、話題は「その後」になっていた。
義母の一番の気がかりは「あんたらどこで暮らすん?」だった。
和「今の家(この義父母宅から歩いて1分)に二人で住もうと思ってるんやけど」
母「あぁよかった!遠くに行くんかと思ってた。(婚約して)新潟に行く話になった時はどうなるかと…アッ!しもた」
僕「その話もちゃんと聞いてますし、大丈夫です」

いちおう、僕は酔っぱらう前に「よろしくお願いいたします」と挨拶したと思うけど、あんまりよく覚えてない。さすがに「和子さんをお嫁に下さい」なんて口上は考えなかった。和子さんはモノじゃないし、「女偏(おんなへん)に家と書いて嫁」といういわゆる「嫁」でもないし、この場には不適切な表現だからだ。「所帯もちかぁ」とブルーになった僕でも、この辺りはシッカリしていた。

この夜、遅くまで飲んだ僕は、はじめて和子さんの家(つまりこの後住む予定の家)に泊まった。そのものすごい荷物の量に思わず、「あの…僕はどこに?」とこぼした。

この親達にして…

和子さんの両親に挨拶をすませ、僕の両親宅にも行き、「この人と結婚するから」と報告。和子さんは「手と足が一緒に出る」と猛烈に緊張していたが、数時間後には、脱ぎ捨ててあったブラジャーを僕の父に発見され、「あれはその…あそこでエエんかのぉ?」と突っ込まれていた。ともかく、無事に報告がすみ、両親達の認知のもと共同生活に入る準備ができた。

その後、僕の両親が京都に来るついでに、和子さんの両親が和子さん両親宅で対面する機会があった。開口一番、

「ウチの息子はまだ学生で、収入もたいして…」
「ウチの娘は料理も家事も全然でして…」


こう言いながらも、両方の親とも全然卑屈でもなく、「自分達の教育の不行き届きで…」とか「申し訳ない」などという空気はまったくなかった。むしろお互いに、「よくぞこんな巡り合わせがあったもんですなあ!」という感じだった。



さて、こんな感じで、僕たちの言ってみれば「男女逆転結婚」を受け容れてくれた両親達。よく講演会場で質問されることに、「ご両親はどういう方なのですか?」というのがあるので、次は、僕の両親も含めて、和子さんと出逢うまでについて書いてみよう。

僕の家事歴

僕の両親は、父が国家公務員で母が専業主婦。「男は外で仕事、女は家で家事・子育て」の典型的な片働き家庭。子ども時代に父が家事をする姿というのを見た記憶はあまりない。「オイお茶!」というタイプの父ではなかったが、かといって洗濯物をたたんだり、掃除機を使っている姿というのはまったく見た覚えがない。

ただ、父は僕が小学校時代、帰宅が公務員官舎の中でもとくに早く、帰って来たら庭の手入れをしたり、山岳写真の整理をしたり、少年野球の手伝いに出掛けたりと、趣味に熱心だった。多趣味なのは母親もそうで、家事にものすごく熱心だったわけではなく、家事を簡単にすませてできた時間で、音楽や読書など自分の時間に使っていた。

僕の「主夫」友達の中には、生来の「家事夫」もいる。両親が共働きであったり、シングルペアレントであったりして、「小さな頃から料理していた」「弟の弁当も僕が作った」という人もいる。彼らに比べると、僕の家事歴はかなり短いしレベルが低い。

一番古くからしていたものは、おそらく小学校の高学年くらいから続けていた、靴下とパンツをお風呂に入った時にザッと石鹸で洗うことだ。食べたお皿を片付けたりは小さな頃からしていたような気がするが、洗った食器を布巾で拭くのは、高校時代に入って妹と交替でしていた。浪人時代になって、お昼ご飯として、母が毎朝材料だけ準備してくれていたので、好きな時間に(といっても毎日決まって時間だったけど)気分転換に毎日焼き飯を作った。高校時代は自分の部屋があったので、部屋の掃除と布団の上げ下ろしはした。だけど、いろいろ書いてみても、どれも「お手伝い」レベルで、一人ではなんにも暮らしていけない程度だった。

19歳の時に親元の高松を離れ、大阪の大学に進学し一人暮らしを始めた。その時、はじめて洗濯をした。といっても週に一回、コインランドリーに洗濯物を持って行き、干してたたむだけ。四畳半風呂ナシトイレ共同というアパート暮らしだったので、物干し場も共有だった。狭い場所に衣類を干す技は、この時に必然として身に付いた気がする。さいわい、流しは各部屋についていたので、最低限の食事は自分でなんとかできた。といっても、大学の学食まで歩いて数分の下宿。一人分を作ったり作らなかったりするよりも、毎日学食で昼と夜を食べる方がはるかに割安だったから、朝食以外はたいてい外食だった。その朝食もパン食だったので、「料理」と言っていいのかわからない程度だった。掃除もはじめは熱心にしていたけど、そのうちやらなくなった。

このアパートには、会社員を辞めてからもう一度戻った。家賃が格安だったのと土地勘があったのと、タイミング良く空き部屋があったので、学生時代に入っていた部屋の北隣の部屋に入った。この時は、冷凍冷蔵庫やグリル付きのガスコンロを持っていたりして、自炊体制になっていた。

僕は社員寮で生活するうちに、自炊するようになった。残業して帰ると、飲食店はすでに閉まっている時間だった。近くにコンビニもなかったので、部屋についている一口コンロでインスタントのパスタやカレーを温めて食べるところからスタートした。

僕が本格的に、料理に目ざめたのは、その社員寮に妹が遊びに来た時、ササッと親子丼を作ってくれたことだった。目の前でチャチャッと調理されて、「こんなに簡単にできるモノなんか!」と驚いたのと、「妹にできるんやったら、僕にもできるはず」という敷居の低さからだったと思う。「肉じゃがやって簡単やで」と目の前で作られショックを受けた。「煮物料理はとっても難しい」と思い込んでいた僕は、ショック2連発で「料理を大げさに考えすぎてた」と目覚めた。

折しも、僕が会社員を辞めた1993年は、「私の記憶が確かならば」、フジテレビで「料理の鉄人」がスタートした年だ。男性の料理人が格好よく紹介され始めた時代だった。鉄人の道場六三郎さんや陳健一さんやバラエティーでも周富徳さんなど、料理人が芸能人的に扱われる時代になった。「料理っておもしろい」という流れも、僕に追い風だったと思う。しかも脱サラして節約生活に入った時期。自炊はもはや不可避だった。だけどこの時、将来まさか毎日家族全員分の料理を作るようになるとは思ってなかった。

自分で洗濯や料理をすることには、一人暮らしでは当たり前。だけど、僕が「主夫でもエエかな?」と思うようになるには、もうワンステップ必要だった。

赤面レポート

僕の家事実践は、家の家事手伝いから一人暮らしというという転換を経て、さらに脱サラ貧乏暮らしという必要に迫られた部分もあり、自然とその能力が身に付いた。凝り性という性分も、家事とくに料理を楽しむ方向に向く追い風になった。

だけど、男女共同参画や男女性別役割分担というものに対する意識という面では、僕のスタートラインは、ポールポジションの研究者エリート達や主夫エリート達からは、はるかに遠いグリッドからのスタートだった。

先に書いたように、僕の家族は、サラリーマン+専業主婦に子どもが男女一人ずつという、典型的な「ニューファミリー」だった。父は、ほとんど家事らしきことをしない仕事と趣味の人だった(定年退職した今は違うけど)。当時の父の職場環境も、女性がほとんどいないか、いたとしても補佐的仕事を受けもつだけだったようだ。そのせいか、父は女性の社会進出にはとっても否定的だった。

高校3年のある時(1985年)、学校からレポート課題が出された。正確な課題文は忘れたが、それは女性の社会進出についての課題だった。そのレポートに対して、僕が書いた内容は、今思い出しても赤面モノであり、いかに僕の考え方が劇的に変化したかがわかるモノだ。

現物はすでに処分しているので、うっすらと覚えている内容のみだが、しかしハッキリと記憶に残っている。大筋はこうだ。

女性には残業や出張ができない。なぜなら家庭で子育てをしたり、家事をしたりしないといけないからだ。女性の中には、男性と同等に働く人も中にはいるが、その大半は家庭での役割を放棄した人達であり、そういう人達が増える事は、社会としては好ましくない。そもそも、女性には男性のような腕力もない。云々。

弁解を書かせてもらうと、これは僕の意見ではなく、「女の人はすぐ辞める」など、父がよく家で語っていた内容だった。正直いうと、僕には女性の社会進出についての意見はなかった。ただ、なにを書いていいかわからない時に、その場しのぎの意見としていい加減に書いたのがこれだった。父親がいうことに対して、「なぜ残業ができないのだろうか?」や「なぜすぐ辞めるのか?」という、そこまで深く追求するセンスも僕にはなかった。

その父も、シッカリとした根拠をもってして、「女性の働き手はアカン」と言ってたかというと、これまた怪しい。東京の本庁から転勤してくるエリート官僚達の受け売りだった可能性は十分考えられる。日々の業務に追われ、自分でジックリ考えたうえでの発言ではなかったのではないか?と今では思える。

このレポートを担任の先生に見せたところ、彼はとっても困惑した顔をしていた。今でも、その時の困った顔をハッキリと思い出す。僕の後悔は、なにも意見がなかったのなら、「意識して考えた事はない。ただ、今後は少し視野を広げてみるべきだろう」と書くべきだったということだ。当時は、まだエエ格好したり見栄を張る部分があったのだと思う。ところが、エエ格好のはずが、見識のある人達や受験で点を取れる人達の「模範解答」知り、「なんで?みんな男は仕事、女は家事って思ってないん?」と腑に落ちない僕がいた。

こんな思考停止かつ保守的思考にフリーライドだった僕も、少しずつ意識が変わり始めた。それは、高校3年での大学受験で惨敗し、浪人した時だった。時間的に余裕ができ、某大な量の現代国語の評論文を読むようになった。政治、経済から文化や芸術、哲学や科学、戦争や宗教、イデオロギーなど、さまざまな領域の、それも現代国語の問題文に使われるような、名著や名文にたくさん接することができた。一気に情報源が広がり、経験だけでは知り得なかった、貧困や人権問題や公害問題などの現実を知った。少し斜めから社会をみる視点が育つと、いろんな立場の評論が、自分の立ち位置をもって読めるようになった。そんな中で、僕のジェンダー観も少し変化し始めた。

まだ頭の中が固まらず柔軟な時期に、たとえ詰め込みであっても、いろんな考え方に接するというのは悪い事ではないような気がする。僕が、受験戦争を全面的に否定しないのには、こういう背景があるからだ。

大学受験が終わり、大学進学と共に一人暮らしが始まり、家事実践はすこしずつ身に付いた。頭の中も、少し変化していたかもしれない。でも、ジェンダー研究者になるチャンスは、自分のものにできなかったし、興味もなかった。僕が通っていた大阪市立大学には、女性労働研究で著名な竹中恵美子先生も在籍していたのだけど、そのことには全然気付かない程度の意識だった。スピリチュアル・シングル論の伊田広行さんが、同時代に大学院で竹中ゼミに在籍していたはずなので、もう少し意識が高ければ、モグリでもなんでも行動できたはず。でも、当時の僕には、そんな「正統派」な意識や見識はなく、バンド活動に明け暮れる「ダメ学生」生活を過ごしていただけだった。

バンドの練習ばかりしていたので、ろくに講義も出てなかった。講義も出ず、レポートだけ出して単位がもらえるほどの要領の良さも瞬発力もなく、一科目分の単位不足で卒業時に留年した。留年すると、それまであんまり親しくなかった同級生も、「同じ留年組」というだけで急に仲良くなり、講義情報や就職情報の交換から、合コンや飲み会などの付き合いをするようになった。それまでバンドばかりで、しかも大学のサークルとは関係なく活動していた僕にとって、いちばん学生らしい生活をした時期だった。この頃、近所で下宿している者同士でよく飲んだ。

そんなある日、これも強烈に覚えている出来事があった。博多出身の田中くんと飲んでいると、彼が

「オレなぁ~主婦ってイイなぁって思うんやわ。いくら家事がシンドイゆ~てもノルマがあるわけじゃないやん?オレも主婦になりてぇなぁ~あ、主婦じゃなくて、男やから夫の方の『主夫』やね」

と語っていた。
僕の人生で、はじめて「主夫」という言葉に接した瞬間だった。彼とは卒業式で一緒に写真を撮り合い、「もう二度と会えないかもしれないけど、貴重な時間を過ごせた。ありがとう」と別れたきりだけど、今振り返ると僕の人生に強烈なインパクトを残した。

今で言うイケメンで、いつもオシャレで、一人住まいの彼の小洒落たマンションには年上のワンレンボディコン(今どきの若者にはわかるまい)の彼女が通ってくるという、ドラマに出てくるような男だった。僕の中にあるクールな彼のイメージと、放っておいても出世しそうな頭の良さと見た目を兼ね備える彼から、「主夫になりてぇ」というのを聞いて本当に驚いた。当時の僕は、「ふぅ~ん…主夫かぁ」と答えたような気がする。彼の「主夫」発言の他に、覚えているのは、その話をした店が、地下鉄あびこ駅近くの赤提灯の焼鳥屋で、とうていオシャレな彼には似つかわしくない場所だったことくらいだ。

はじめて僕が「主夫」という言葉を公に使ったのは、脱サラ後に始めた佛教大学通信課程のレポートの中だ。社会学か家族社会学のレポートだったと思う。男女性別役割分担について、「男性が主夫という立場を選択したなら」というテーマで書いた。「現在の男女性別役割分担は、支配しているとされる男性にとっても、家事や地域生活は難しく、決して全面的に有利な状況とはいえない」という内容のレポートを書き、締めに「父子家庭では、このような不具合が生活問題として負担になる」と書いたと記憶している。採点教員の評価は「優」で、「逆転の発想からのレポートで、切れ味が良い」と書かれていた。

このレポートは1995年の夏に提出した。この2年後の11月に僕は和子さんと出逢った。頭の中のパラダイム転換は、いいタイミングで間に合った。


僕自身には、こんな経緯があり、和子さんと出逢い、そしていよいよ結婚生活が始まることになる。

久美子先生の名言

婚姻届の右上に「証人」の欄がある。僕たちは、迷うことなく前出の久美子さんご夫妻にお願いした。お二人とも喜んでサインしてくれた。そして、この時、久美子さんの口から名言が飛び出した。

「結婚はねぇ、
誤解錯覚勢い
この三つそろわないとできないのよ。」


いろんな人の結婚観を聞く機会があるが、これほどまでに現実的な結婚観を聞いたのは、後にも先にもない。

「結婚の条件」といえば、年収や職業や見た目や価値感の一致や思いやり…いろいろ言われるけど、これは「結婚『相手』の条件」でしかない。そんなモノはどれだけそろっていても、この「誤解と錯覚と勢い」の三つがないと結婚には至らない。逆に、どんなに凸凹な組み合わせであっても、格差婚であっても、結婚に至ったカップルには、確かにこの三つがそろっている気がする。

講演でこの話をする機会はないけど、学校の講義で話をすると、結婚経験のある学生からは、間違いなく「同感!」という反応がある。

不滅の名言であります!

この名言にググッと背中を押され、区役所に届けを出したのは、1998年3月18日。1月2日の「結婚しよっか」から約2か月半後のことだ。

この間が開いたのは、僕たちに特別なトラブルがあったわけではなく、煩雑な手続きに翻弄されたのだった。それは、僕たちが夫婦別姓であることと関係している。
プロフィール
主夫生活の傍ら、「スーパー主夫」「プロ主夫」として講演や執筆活動をしている山田亮のブログです

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